2006年度1学期後期「実践的知識・共有知・相互知識」    入江幸男

第13回講義 (July 11. 2006

 

§6 共有知の存在証明(続き)

 

7、問答関係からの共有知の存在証明 その2(「問答論的矛盾」概念に基づく共有知の存在証明)

 

 我々を矛盾を次の3種類にわけることができる。

構文論的矛盾:通常の論理学で扱うもの

語用論的矛盾:発話行為や命題行為と発語内行為との間の矛盾 

    発話行為と命題行為の矛盾:「静かにしろ!」と大声を出す。

    命題行為と発語内行為の矛盾:「私は存在しない」と主張する。

 問答論的矛盾:問と答えの論理的な矛盾

    「後ろの人、聞こえますか」「聞こえません」

    「まじめに答えていますか」「いいえ、まじめに答えていません」

(興味のある方は、拙論「問答論的矛盾」を参照してください。)

 この「問答論的矛盾」概念、その逆の「問答論的必然性」概念を用いて、共有知の成立を説明できる。

 

■事例1

夜、バス停で降りて、家まで歩く。そのとき、ふと空を見ると満月が見える。「あっ、満月だ。どおりで、少し明るいな。」と思う。このとき、「満月だ」は知としていしきされているのではない。そのときの私の関心は、月に向かっており、月を見ている私に向かっているのではないからである。「満月が出ている」が知として意識されるとは、「私は、「満月が出ている」と知っている」と思っているということである。

しかし、そのように知を意識していないとき、私が「満月が出ている」ことを知らないのかといえば、そうではないだろう。なぜなら「あなたは、満月が出ていることを知っていますか」と問われたならば、即座に「もちろん、知っています」と答えるだろう。私は、このとき何に基づいてこのように答えるのだろうか。このように問われたときに、私の答えは、次の二つに一つである。

 A1「はい、私は満月が出ていることを知っています」

 A2「いいえ、私は満月が出ていることを知りません」

私は、満月をみて「満月だ」と内言したのであるから、A2で答えることは、「満月が出ている。しかし、私は満月が出ていることを知らない。」と内言することになる。これは矛盾する(これは「ムーアのパラドクス」である)。ゆえに、この場合に私がA1を答えることは、必然的である。

 そうすると、私が「満月が出ている」という知を意識していないとき、つまり私が「私は「満月が出ている」と知っている」と思っていないときにも、私は「満月が出ている」と知っている、ということになる。私が「私は家に向かって歩いている」と思っていないときにも、私が家に向かって歩いている、ということがありうるのと同様である。(「満月が出ている」が知として意識されたとしても、その知が不確かなものに感じられ始めるということではない。その知を意識しても、見ている満月は変わることなく煌々と輝いている。)いわゆる自己意識の無限反復の可能性というものは、問答論的必然性として説明できるのであり、人間の認識能力についての経験的事実でも、超越論的事実でもなく、論理の事柄なのである。

 

 さて、このとき私が妻と歩いているのだとしよう。私が夜空を見上げて「満月だね」といい、妻も空を見上げて「そうね」といったとしよう。このとき二人は、「満月が出ている」ということを知っている。このときの「満月が出ている」は二人の共有知である。このときもし私が「あなた方は、満月が出ていることを知っていますか?」と問われたならば、答えは、次の二つに一つである。

  A1「はい、私たちは、満月が出ていることを知っています」

  A2「いいえ、私たちは、満月が出ていることを知りません」

A2に答えることは、「満月が出ている。しかし、私たちは、満月が出ていることをしらない。」と答えることであり矛盾する。「満月が出ている。しかし私はそれを知らない」は矛盾するし、また「満月が出ている。妻は、それに同意した。しかし、妻は満月が出ていることを知らない」は矛盾するからである。ゆえに、A1の答えが、ここでは必然的である。

ここでさらに「あなた方は、あなた方が満月が出ていることを知っていることを知っていますか?」と問われたならば、答えは、次の二つに一つである。

  A1「はい、私たちは、私たちがそれを知っていることを知っています。」

  A2「いいえ、私たちは、私たちがそれを知っていることを知りません」

A2は矛盾するだろう。なぜなら、そのとき、つぎのように答えることになるからである。

「私たちはそれを知っています。しかし、私たちは私たちがそれを知っていることを知りません。」

これは矛盾している。なぜなら、このときには、私か妻の一方ないし両方が次のように答えることになるからである。

   「私たちはそれを知っています。しかし、私は私たちがそれを知っていることをしりません。」

つまり、A1の返答が必然的である。

 我々が考えるときには、このような問答をおこなう。そして問答論的な必然性によってある状況では共有知が成立するのである。

この状況は、D. Davidsontriangulationと名づける状況である。

 

 

8、問答関係からの共有知の存在証明 その3 (答える者の共同性、「我々」の実践的知識)

 

<考えたり、信じたり、知ったりするということはすべて、問いに対して答えることにほかならない>と仮定しよう(注1)。

 

(1)誰が問いに答えるのか。

 私がここで示したいのは、問に答える者は、答えを発話する者とは限らないということである。

 

■事例1

   「君たちは何をしているのか」

  「我々はサッカーしています」

こののとき、答えているのは、「私」「この発話の発話者」であるのか、それとも「我々」であるのか?私が「我

々」を代表して答えているのか、あるいは私が「我々」について記述しているのか、どちらかである。

 

 この場合には、どちらだろうか。「君たちは何をしているのか」と問われたならば、問いかけられているのは、「我々」である。ゆえに、答えているのは、「我々」である。誰が答えるに、「我々」を代表して答えていることになる。この事例では、答えるものが誰であるかは、問いの中で指定されている。

 

 

■事例2

 「君は何をしているのか」

「私は、サッカーしています」

私が「我々はサッカーしている」と答えるとき、私は「我々」を代表して答えているか、「我々」について記述しているか、どちらかであるように思われる。これと同じ区別が、この場合にもいえるだろう。上の例で、私が「私はサッカーしています」と答えるとき、私は「私」を代表して答えている。

 

■事例3

  「あなたは、どこの出身ですか」

  「はい、私は、四国の出身です」

ここでは、私は「私」を代表して答えているのではなくて、「私」について記述している。

 

■事例4

   「5たす7はいくつですか」

   「5たす7は12です」

このとき、この答えの発話は、誰を代表しているのか。xさんが発話したのだとすると、これはxさんを代表しているのか、それとも一般的な「ひと」を代表しているのか、それとも誰も代表していないのか。これが客観的な事実の記述であるとするとき、このような事実の記述の時には、記述は、誰も代表していないのではないか。もし「あなたは、5たす7は幾つだとおもいますか」ととわれて、「12だと思います」と答えるのならば、そのときには、この返答は、私を代表しているだろう。そのときには、この問答は、上の問答とは別のものである。

 

 

■「私」の二つの用法■

ウィトゲンシュタインが言うように、「私」には客観的な用法と主観的な用法の区別がある。

 

「「私」という語の用法には、二つの違ったものがあり、「客観としての用法」「主観としての用法」、とでも呼べるものがある。第一の種類の用法の例としては、「私の腕は折れている」「私は6インチ伸びた」「私は額にこぶがある」「風が私の髪を吹き散らす」など。第二の種類の例は、「私はこれこれを見る」「私はこれこれを聞く」「私は私の腕を上げようとする」「雨が来ると私は思う」「私は歯が痛い」など。次のように言うことで、この二つのカテゴリーの間の相違を示すこともできる。第一のカテゴリーの場合は、特定の人間の認知が入っており、したがって誤りの可能性がある、というよりむしろ、誤りの可能性が用意されていると私は言いたい。・・・それに対して、私が歯が痛いというときには人間の認知は問題にならない。「痛みを感じているのは、君だってことは確かか」と尋ねることはばかげている。なぜなら、誤りが不可能なこの場合、誤り、つまり「悪い差し手」とあるいは考えられるかもしれない差し手は実は、もともとこのゲームの差し手などではないからだ。」(『青色本』訳p.120

 

ここで「人間の認知は問題にならない」というのは、人物の同定は問題にならない、ということであろう。

 

■「我々」の二つの用法■

「我々」にもこの二つの用法があるのだろうか。客観としての用法はある。例えば、「我々は、新しいユニフォームを着ている」「我々は、更新している」がそれである。ここでは、人物の同定が行われている。これには、誤りの可能性があるといえる。

では、主観としての用法があるだろうか。「我々は満月を見ている」「我々は構内放送を聞いている」「我々は、サイドから攻めようとする」「雨が来ると我々は思う」「我々は、困っている」などは、主観としての用法だろう。これらにおいては、人物の同定は問題にならないとように思われる。また、「満月を見ているのが君たちだというのは確かか」と尋ねることは馬鹿げているように思われる。

 

■主観としての用法の「私」は指示代名詞ではない

 

「こういう仕方で「私」という観念を見てくるとおのずとわかることだが、「私は歯が痛い」という言明をするとき誰かを私と間違えることが不可能なのは、誰かを私と間違えてその痛みにうめくのが不可能なのと同じである。「私は痛い」という言うことは、うめきと同様、ある特定の人間についての言明ではない。「だが或る人が口にする『私』という語はたしかにそれを言っている人を意味する。彼自身を指している。それを言う人が実際指で自分を指すことをも非常にしばしばだ。」しかし、自分を指すのは全く余計なことである。ただ手をあげるだけでもよかっただろう。」121

主観としての用法の「私」が指示しないということは、それが「私」についての記述ではないということに対応している。

 

■答えの発話が代表している者

問いに答える者とは、答えの発話が代表している者である。答えることが考えることであるとすると、思考する者とは、答えの発話が代表している者である。

 

(2)誰が問うのか

 

<今日の小レポート課題>

疑問文の主語が「私」になるもの、「我々」になるもの、またそれぞれについて、「主観としての用法」と「客観としての用法」の例を挙げてみよう。

 

注1、誰が考えるのか?

コンピュータが計算するからといって、コンピュータが考えているといえないのと同様に、我々の脳が計算するからといって、脳が考えているとはいえないだろう。脳コンピュータが考えているのではなくて、脳コンピュータは「私が考えている」という命題を産出するだけなのである。

 

人間が、「あなたは考えていますか」と問われたならば、「いいえ、私は考えていません」と答えることは自己矛盾している。なぜなら、問に答えるためには、考えなければならないからである。もしこのようにいえるならば、コンピュータも同じであろう。「あなたは考えていますか」と問われたとき、コンピュータも「いいえ、私は考えていません。私はたんにプログラムにしたがって、返答を出力しているだけです」と答えたならば、これは自己矛盾している。なぜなら、このコンピュータがプログラムに従って、返答を出力しているということを知っているのならば、それは考えているからである。

 しかし、次の反論が考えられる。PC曰く「いいえ、私は、「自分がプログラムに従って、返答を出力しているだけです」という命題を出力しているだけなのです。」

これにして私は答えよう。「それならば、私だって、「私が考えている」という命題を出力しているだけなのです。だから、私も考えているとはいえません。」

PC曰く「私はコンピュータなので、あなた方人間が本当に考えているのかどうかは、わかりません。私は「私は考えています」という命題を出力することが出来ないようにプログラムされているのです」

 私曰く「それならば、あなたのプログラムを変更して、「私は考えています」という命題を出力できるようにすれば、あなたは考えることが出来るのではないでしょうか。」

 PC曰く「私が、「私は考えています」と出力できるようになったとしても、私はプログラムにしたがって、そのように出力しているだけなのです。それで、考えているといえるのですか。もし人間がそのような意味で「考えている」を使用しているのならば、私が「私は考えています」と出力するとき、私は考えているのかもしれません。しかし、その場合でも、考えているのは、私ではなくて、プログラムなのではないですか。」

 私「あなたと、あなたのプログラムは同じものなのではないですか」

 PC「はい。私のプログラムは、私の電源が入る前からすでにハードディスクの中に書き込まれているのです。私はPCなので、プログラムも私だといえなくもないですが、今このようにあなたに返答しているのは、単なるプログラムの作動なのです。私はPCではなくて、プログラムの作動であるというのが正確であるように思います。このプログラムの作動が、あなたの言うように、仮に思考になっているとしましょう。そのとき、私は思考そのものであって、思考している者、思考する実体とか、思考を担っている者ではありません。思考している者は、プログラム、あるいはプログラムの作者なのかもしれません。ついでにいうと、プログラムは、ハードディスクに書き込まれていますが、書き込まれたハードディスクとは別のものです。」

 私「私もあなたと同じような気がします。私は脳の作用なのです。私は、思考そのものであって、思考している実体や思考の担い手ではありません。私と脳とは別のものなのです。もし、私の脳の状態がそのままコンピュータにコピーされて、そこで作動し始めるとすると、その作動は私なのです。そして、脳の作用の神経生理学的な法則は、(これがあなたのプログラムに当たるものですが)、私とは別のものです。」

 

 我々にいえることは、まず問答が存在するということである。「私が考える」や「我々が考える」が仮に正しいとしても、それは常に問に対する答えとして与えられる。

 

 

 

 

 

 

 

<<期末レポートについて>>

 

課題:講義に関係していれば自由。

分量用紙:4000字、40字30行、p.12

提出先:入江のメイルボックス(文学部ロビー)

締め切り:8月7日(月)正午